鑑賞「039:広」

1〜236首目のなかからのお気に入り短歌です。広い、という意味をもつ言葉の、その不明瞭な尺度に作者さんがどれだけのスペースを託したのか、そのへんも楽しみながらの鑑賞でした。


■ その広さ知ってしまったお魚はそれでも海で溺れなかった
   (jonny
おとなになるって、こういうことなのかも。自分と隣接してる水量は変わらないのにね、視野が広がって空間の実体を知ることで、生まれる怖さがあるんだ。ふと星新一ショートショートを思い出しました。高所恐怖症の男が、あらゆる高い場所をさけて地を這うように生きてるんですけど、ある日地下を掘り起こす工事現場に出くわして、底辺だとおもっていた自分の足元にさらなる底があることを知り、発狂してしまう、というお話。この歌はその逆。負けなかったんですよね、この世で生きることに。「お魚」というかわいい響きにテーマを任せることで重くなりすぎずに、けれどファンタジーで濁すことなく歌いきられています。


■ 手を繋ぐことで失う どの空もこんなに広いことがおかしい
   (久哲)
恋愛時にあってなお、縛れないこころを歌ったものなのかな、と最初は感じたのですが。もうすこし奥がありそうです。人間はヒトである以前、鳥だったことがありますよね。進化と呼ばれる変化をしながら現在はこの体をして、とっくに羽ばたけなくなってますけど、名残りで空は自身の範疇であるとおもっていたいのかもしれない。けど、「手を繋ぐ」ということは、その名残りさえも捨て、地で生きるということに他ならない。空は空として変わらずにそこにあるのに、私たちだけが変わっていった。。空だって、飛びたくもない代物に変わっていたなら、あきらめもついたのに、ね。実際は、この歌の空はなんらかのメタファかもしれないし、やはり恋愛を詠ったものかもしれないけれど、「失う」ことの原風景として、そんな想いが巡りました。


■ 帯広の妻に戻りしかの人の便りは来ずや馬鈴薯を買ふ
   (ふみまろ)
「広」のつく地名といえば広島、というような数々の投稿作品のなか、異色をはなっていたのがこの「帯広」です。主体が逢っていたかの人は、妻という代名詞を置いてきてたんですね。消えそうな糸をにぎり、名産の馬鈴薯を買うことで、かろうじてつながっている、とおもっていたい主体の想い。そうなのよ。。十勝の馬鈴薯、おいしいですよね。。(脱線)


■ 哀しみは少し遅れて滑り出す吊り広告をふいに揺らして
   (流水)
嗚呼。そうなんだよ。ガタン、という電車の衝撃、私たちはいつも半歩遅れて揺れる。その瞬間には気づかない、さまざまなこと。物理的作用とこころの動きがうまくシンクロしてます。ちょっとだけ漢字が多いかなーともおもうけど、まずはこの風景に拍手を。


■ 目的はカラダだけだと割り切れば広がりゆく海 夏はもうすぐ
   (ぷよよん)
歌のど真ん中に位置する「割り切れば」。ドライなようでその実、自身に言い聞かせてるような印象です。以前こころごと持っていかれたことが、あったんだろうな。夏という季節の刹那性はどこからやってくるんだろう、気候? 長い休み? 色濃く繁ったり花満開な繁栄期だからこそ、その向こうの下り坂を想像してしまうんでしょうか。カタカナの「カラダ」が効いてます、やはりここは「体」じゃダメね。カタカナにして、そんなもんよ、って軽くあしらうことで、けど奥に閉じこめた感情が見え隠れする。夢中になんかならないよ、学習したもの。……そんな目をしてても9月にはまた、ぐるぐるしちゃってるのかもしれません。明日のことなんかなにもわからないけど、ほら、こんなに。キラキラ、海はまぶしい。