鑑賞「032:世界」

おひさしぶりです。1〜247首のなかからピックアップしたステキ短歌です。あれ、番号飛びましたね? ってかた、正解です。笑。『題詠blog2009』の鑑賞は今年いっぱいの予定でいまして、しかしこのペースでいくと鑑賞の完走は叶いそうもない、というわけで、以降はイシハタが独断で気になるお題をチョイスして紹介していきますね。要するに我がまま進行です!

世界。私はこの言葉がとても、とても好きで、同時にいつも恐れています。私のおもう世界は世界(と呼ばれているもの)と同義なのか? 誰かの世界のなかに私は存在するのだろうか。世界のどこにも私はいない、というとき、私のいない世界をも、私は愛せるだろうか。誰かを私の世界から打ち捨て、それでも生きていくということ。“世界”とつぶやくとき、私はいつもそんなことを考えています。


■ 世界中の核兵器すべて無くなったエイプリルフール桜満開
   (原田 町)
嘘が真意をつくときってありますよね。実際には存在しないとおもってる世界は、いま私たちが息をするこの世界とコインの表裏みたいに存在してるのかもしれない。地球がまるいなんて嘘で、ほんとうはこの道の裏側にぴっっったりとくっついた、反転する道があってさ。そこでも桜が満開で、裏でもみんなでお花見なんかしてるのかも。真実ってなんだろうね。嘘と、同体なのかもしれないね。核のない世界、ある世界、ふたつの世界をはさんで、満開の桜と私たちの嘘/祈りが輝いています。いい歌だなぁ。


■ この駅が世界のすべてだったことがある桜がまた咲いてる
   (音波)
これも桜のある風景です。二首ともたぶん春頃に詠まれたんだろうな。つまり君、にまつわるものだけが世界であったころが。あったんだよね。愛の残酷さがとてもいいです。つまり、当時は主体にとって君以外は世界じゃなかった、ということを断言してる。ほかの一切をばっさりと切り捨ててたんです。残酷だけどね、詠まれるべくして詠まれた歌だとおもうよ。こんなふうに、世界はいくらでもトリミングされるものだし、逆にいえば一個の人間が世界そのものになり得る、ということ。世界という概念がとても解りやすく風景になっていて、とても好きです。「また咲いてる」の言葉に、それからどれだけを乗り越えてきたんだろう、と想像をかき立てられます。最後の字足らずはあえて、なのかな。喪失の象徴としての。


■ 世界ふしぎ発見!の金のヒトシ君みたいにあなたの前から消える
   (沼尻つた子)
これはいい固有名詞。没シュートです! のあの音楽と野々村真の(なぜ限定・笑)アワアワとかなしく惜しそうな顔が浮かぶようです。「君」にとっては穏やかじゃない風景だし、もとより消えるからにはそうあって欲しいという主体の望みでもあるでしょう、「金のヒトシ君」にその意をビシビシと感じます。しかしなにがあったんでしょうか。没シュートしなきゃならないような事態が。あったんだろうな。ねえ君よ。


■ 愛しぬく決意できずに紫陽花は塀の向こうの世界を覗く
   (やや)
紫陽花の勝利。そして「向こうの世界」という妙味。満ち足りないこちらの世界から見て、自分のいない魅惑的な別世界がそこにはある、んですよね。けど飛び込んでしまえばそれはもう“自分のいる世界”であり、覗いていたころの輝きとは決定的に違ってしまう。これ、読むひとの心情によって対極の解釈が可能です。つまり冒頭の「愛しぬく決意できずに」はどちらにかかっているのか。塀のこちら側での現状なのか、向こう側への予感なのか。そのダブルミーニングと主体のジレンマが、うつろう色を持つ紫陽花とシンクロして深みを出しています。


■ くちびるが世界、とひらき漏れ落ちる欠片のなかにわたしは棲んで
   (石畑由紀子
さいごに自分のを。いいですか。多謝。これを詠めて、題詠blogに参加してよかったなぁーとおもう幾つかの歌のなかの、ひとつです。ありがとう、せかい。