鑑賞「094:底」

「093:全部」(TB1〜165)は鑑賞のみで失礼して、「094:底」TB1〜164のなかからのピックアップです。底。そこ、って。ぴったりな響きだなあとおもうのです。「ここ」でても「あそこ」でもない「そこ」。物理的距離じゃなく精神的な距離としてね。「ここ、あそこ」のようには、現在過去おいても自身の所有物になりきらない、その手の届かなさ。はっきりとはわからない、ゆえにおそれ、けどどこか懐かしい、望郷の念のようなもの。底。そんな風景が「そこ」という響きにはある、そんな気がします。言葉の意味だけでなく、響きの意味にも耳をすましていたいです。


■ ためらひのごとき間をおき潰れゆくわが靴底の青き梅の実
   (梅田啓子)
青梅の頑な。それがはじけるまでの、む、とした瞬間に感情を見たのですね。「わが靴底」とあるように、靴底とその感触に通じながらも主体は、青梅になにか憶えがあったかもしれません。と、ここまで書いて梅田さんのお名前にも梅が! 私も石を詠むときにはふと想うことがあるんですが、みなさんも自分の名の言葉を詠むとき、どうですか。って話が反れてすみません、笑 映像・感触・香りまでもがみえる、いいお歌だなあ。


■ 受話器越し赦しの声の深々と母とふ沼の底は知れなく
   (理阿弥)
電話だからよけいに声の意味がわかるんですね。母という、底の知れなさ。ほんとうそうだなあ。湖や海じゃなく「沼」っていうのにも惹かれました。底なし沼にかけているからだともおもいつつ、決して母を聖母のようには見ず、ヒトとして相応の泥も持ち合わせながらその上で赦してくれるんだと、主体はわかっている。それは元々そうだったというより、母になったからこそなんでしょうね。