鑑賞「085:訛」

さて、ひねもすもくもくと。TB1〜169のなかからのピックアップです。あ、ちなみに、お歌の紹介はありませんが「084:千」はTB1〜164を鑑賞しました、ありがとう。


■ 活字にても訛は消せず青森の林檎の枝を揺さぶりやまず
   (野州
わあー、三句からのメタファがいいですね。もしくはほんとうにそういう感覚が心象風景として立ち上がってるのかもしれないです、主体のなかに。枝葉のざわめき、手応えが伝わってくるかのよう。


■ 濁音のような小雨は降りやまず離れて暮らすいもうとの訛
   (黒崎聡美)
生まれた街をとおくはなれて独り暮らしのひとにとって、雨音の角がとれてやさしくなるのは、その街がこころから自分の街になったときなんでしょうね。もしくは、孤独を愛せるようになったとき。この主体は、まだそうじゃない。「濁点」という言葉に含ませている色々を想います。母じゃなくて「いもうと」っていうのも、いいですね。電話(おそらく)で話すその内容は、母と妹では違うから。親には話せない、「いもうと」じゃないと話せないことだったんです。きっと。


■ 耳たぶの産毛をなでるあのひとのふうわりとしたたんぽぽ訛り
   (キキ)
たんぽぽ訛り! たんぽぽ訛り! 嗚呼、これいいなあ。ひとの佇まいを、こんなふうに喩えるなんて。もともと、結句のインパクトは大事ってはなしを短歌の技術のひとつとして耳にしますが、その際の言葉のチョイスとかメタファは個々の感性なので、どれだけセオリーが頭に入っててもそれなりの歌止まりになるものはたくさんあるとおもうんです。キキさんのこの結句は、技術があってなお感性が技術をゆうに越えているからできることなんだ。四句までの穏やかさ・やわらかさをなにひとつ壊さないまま、ここまで飛べるんですよ。あと動詞を多用せずひとつに絞り込んでいることも、歌の技術のひとつですね。おなじく詩をたずさえる者として、ちょっとこれは、きますよ。うううなんで私が詠んだ言葉じゃないんだ。笑 がんばるっ。