鑑賞「003:公園」

TB1〜175までのなかから印象的だった歌のピックアップです。ブランコ多かったなぁー、やはりアイテムとしてはいちばんなんでしょうか。あと具体的な公園名も。私自身、固有名詞を詩歌に組み込むことがたびたびあるのですが、そのたび難しいなぁーと感じています。読み手との共有事項として組み込むのか、それを知らない読み手にも歌のベクトルを想起させるポジティヴなアイテムになり得るのか。つまり、結果独りよがりになってしまわないか、独りよがりでなお効果的であることは可能か否か。これについては私自身、考え続けていたいなーとおもいました。


■ カタカナで女が叫んだ公園は一年たってビルに変わった
   (松木秀)
カタカナで叫ぶ、の的確さ。ひとのこころに届かなかった、生身の叫び、無関係な他人の痛みとして葬られた、叫び。その公園が取り壊されビルが建つことで視覚的にも葬られ、事実だけが主体によって淡々と語られています。公園はかつてのような憩いやコミットする場から、立地や規模によっては犯罪の死角としてむしろ警戒される場へと変化しつつあります。公園、という形骸化された呼称のむなしさ。希薄な人間関係の象徴ともとれるビルが安心を運んでくるという社会事情。従来の公園イメージのままあたたかな雰囲気に流れる歌が多かったなか、冷静な観察者としての作者の目が印象的でした。


■ 夕焼けの公園で営業二課の加藤が鳩になっていました
   (中村あけ海)
夕刻の公園が似合うのは営業課しかありません、そして二課。はぁ。。しんどそう。。なにしろ「鳩になっていました」のひとことの威力がだんぜんすごい。まず実写で想像するとより可笑しさやしんみり感が胸に迫ってきます。いいですね。辻井竜一さんへのリスペクトでしょうか、総務課の田中さんシリーズとならべてみたい一首です。


■ だれにでもやさしい春の公園のようなかたちで抱きしめられる
   (みち。)
「春の公園のようなかたち」。かたちという表現がとても好きです。キーワードとして漢字は最小限に、あとはひらがななところも。なにげなく計算されている印象です、ひらがなの丸みが持つやさしみ、臆するさま、感情を表に出さないある種のずるさ(それすら、かつての傷跡なのだと、)が、「かたち」という表現どおり言葉のフォルムからもじわりじわりと伝わってきます。……え、内容ですか? 説明なんていらないでしょう? ってか、あの。泣いていいですか。
それでも、それでもね、たぶん君のそのやさしさは。いつかの君がたったひとりを求めて傷ついた/傷つけた、結晶なのかもしれないんだ。君が私にもあの子にもこの子にもどの子にもやさしく、あるたびに。君の好きな子は、君の好きな子たちは、君を大事にしたい想いと、自らのさみしさで、水底で、裂けるように泣いています。


公園のある日々って、なんだか好きです。立ち止まって、耳をすます。公園の音ってあるんですよ。こんど聞いてみて。