鑑賞「043:剥」

TB1〜128のなかからのピックアップです。好きなのいっぱいありました。


■ ビル中の交通安全ポスターを全部剥がせば階段は夏
   (中村あけ海)
交通安全ポスターって春のイメージですよね。いや季節ごとにそういう運動はあるかもだけど。新人ドライバーが増える時季だから? 「階段は夏」って表現が好きです、風景に引っぱられるように、追ってこころも夏になっていく感じ。中村さんの詠む会社シリーズ好きだなー読むの楽しみなのです。


■ 沸きをらぬ湯槽に二月飛び込めりザボンの剥きやう考えてゐて
   (理阿弥)
「サボン」の語感が湯舟に飛び込むさまにリンクしています。上の句ものすごくいいですね! 上質なメタファだ。「二月飛び込めり」、まだいい湯加減になってないのに、っていう。二月って、日数が少ないだけに暦が生き急いでるイメージ。こちらの行動も、心も、サクサク進んでいかないと置いていかれそうなのです。心は、むずかしいね。


■ 死ぬことと生まれることは同義かと見るかさぶたの剥がされたあと
   (揚巻)
歌中「と」の反復が心地よいです。なんどもなんども思いめぐらせてきただろうことを示唆してもいて。そうだなあ、かさぶたって、死であり生であって。これ、自分で剥がしたんじゃないのね。「剥がされた」っていう言葉のなかにあるドラマ性が気になります。もしくは、受け身で表現することで、自身のそれを客観的な視線で観察しているのかもしれません。


■「父さんは母さんのこと好きだった?」剥き身のアサリに話しかける母
   (豆野ふく)
アサリの吐く砂って、告白のようにおもえるんですよね。私も今年春の歌会で、主体がアサリの砂吐きを覗きこむ歌を詠んだので、このお歌にも親近感を覚えました。そんなアサリとの対比は、やはり寡黙なひとが似合います。無口だったんだろな、父。最初この歌を読んだとき、歌中の「父さん」「母さん」とは「母」の両親ではなく、自分たち夫婦のことかもしれない、とも思ったんですが(子供を持つ家庭では、呼称はその子供が軸になることが多いため)、違ったかも。呼称は、歌中の額面どおりでいいかも。「母」が自分たち夫婦のあれこれを考えるうち、ふっと、“自分の両親はどうだったのだろう”“母は、父に愛されていたのだろうか”って、考えたんでしょうね。そんな「母」を、子である主体がそっと、見ている。一家を切盛りする女性がもの想うひとときは、いつだって台所なのかもしれません。