鑑賞「013:カタカナ」

1〜221首からのピックアップです。ぎこちなさであったり意味の軽さであったり閉塞感であったり嘘であったり、さまざまな含みを持たせながらも、圧倒的にみなさん何がしかをカタカナで発声させる歌を詠んでいらしたようにおもいます。その類似性のなかから突出するとしたら、やはり個性的なカメラアイでしょうか。なにをフォーカスしてどんな光景を詠むのか、そんな詠み手独自の魅力に注目して選んでみました。


■ カタカナになってしまった 複雑が綺麗な君の骨だったのに
   (木村比呂)
それもひとつの恋の道、なんだなぁ。カタカナと化したのは君自身のせいなのか、それとも話者の狂気ゆえか。「009:ふわふわ」でピックアップした岡本雅哉さんの歌ともリンクする部分があるとおもいます、惹かれ、一心に求め、奪うことで古びてゆく、エゴイスティックなかなしみ。


■ 「ニッカウヰスキー」のカタカナ「ヰ」の文字が倒れないかと夜通し看てる
   (梅田啓子)
うまい。ヰ、確かにいまにも倒れそう。この「ニッカウヰスキー」はボトルの文字でしょうか、繁華街で光る看板文字でしょうか、いずれにせよ、そんな「ニッカウヰスキー」を夜ふかくまで……おそらくはひとりで……見つめている理由は、ほかにある。そうですよね、そんな夜もきっとある。語ることなく心理をのぞかせているところが巧いです。


■ カタカナの札ぶらさげて保存樹は今年やうやく元氣になつた
   (酒井景二朗)
嗚呼、これいいですね。おそらくイチョウ、とかクスノキ、とか、一見そっけなく書かれた名前、その老木の一日一日を注意深く見つめるまなざしを感じます。私、木を愛でる歌や詩が大好きなんです。圧倒的なわからなさ、他者の象徴として木をとらえる癖が私にはあるのですが、そこに静かに触手を伸ばし、想いを、愛情をそそく表現に出会うことがとても、嬉しい。


■ ナイジェルはカタカナ、わたしはひらがなで雨のはなしをする昼さがり
   (萱野芙蓉)
ぎこちなさを表すカタカナが、けれどその言葉の主を外国人の「ナイジェル」にすることでとても好感触に描かれています。相手の母国語で会話しようとするその行為は、たんなる外国語への探究心にとどまらず、相手の文化を愛し、相手をも愛することにつながってゆく。。外国語会話に触れたことのあるひとなら、その感覚に憶えがあるはず。発声としてのカタカナが魅力的に編まれている一首です。


■ 華氏で読み目盛りから瞳をはなす カタカナ、カタカナ、落ちている蝉
   (我妻俊樹)
カタカナ、という本来の意味を越え、その響きと形状が持っている乾きや空虚が、結句である蝉の描写に向かってジリジリと編まれています。カタカナ、カタカナ、連呼することで「落ちている蝉」が微風に揺れているさままでがくっきりと浮かび上がっていて。我妻さんの歌にはいつも、この風を感じる。かなわないなぁ。いつか追いつきたいです。