短歌鑑賞・「012:達」

というわけでやっと更新、1〜223首目からのピックアップです。熟語をつくるか、○○達(たち)という複数形にするかにほぼ二分してたようにおもいます。字面や意味的にも硬くなりがちな漢字なので、そのあたりをどうアレンジしているかも興味深かったです。そんななかから七首を。


■  友達に 将来の夢 聞いてみた 「佐々木希の 足を舐めたい」
   (根無し草)
理屈なくツボにきました(笑)。いいなぁーこういう直球。これってわりと真理だともおもうんですよ、例えば日々のがんばりのすべては“モテたい”に通じてたりね。そんなおとこのこワールドがシンプルに、豪快に詠まれてます。


■  植物のように静かに咲いているここが到達でも構わない
   (月下燕)
愛の歌、だと感じました。恋愛っていう意味じゃなくて、いや、恋愛につながっていてもいいのだけど、もっともっと大きな。「私」という皮膚を起点にして、広がりつづける内側を満たし、あまつさえそれが外側にも滲み広がっていくような、そんな。生きることに切ないほど懸命であり、それが等身大であるいのちだけが知ることのできる、宇宙のような愛。涙が、でました。読み返すたびになんどもこみ上げてくる。この歌に出逢えてよかった。燕さん、ありがとう。


■ さよならを言うためだけに集まった僕らは君の友達だった
   (音波)
私もこれまでに何度か、友達としてこの風景に立ち会ってきました。そしてそのとき、おもったんだ。ほんとうのさよならは、一度きりでいい。って。会わなくても、離れても、違う日々を生きていても。ほんとうのさよならまで、ずっとつながっている、そんな指を、私たちは携えて生きていこう。


■  梅の花が咲きましたと速達の葉書ののちに訃報また聞く
   (emi)
追うような駆け足で舞いこんだ訃報を手にしたとき、先だって届いた速達のその意味を知るのですね。一年を循環しているように見えるその梅の花も、ほんとうはその一輪一輪がそのとき限りのいのちを生きているように。その姿を、自分の声を、知らせたいとおもう、便りの先である話者はそんな存在だったのでしょう。瞬間の連続を生きる、花といのちのせいいっぱいが伝わってくる歌です。


■ ありがとう、と母に言えない父はもう定年の郵便配達員
   (みずたまり)
あまたの人々の「ありがとう」を目的地にただしく送り届けていた「父」も、自分の「ありがとう」はうまく配達できなくて。不器用で、無口な口元が浮かびます。「母」もそれを解っていそう、やれやれそんなところもお父さんだし、って。おもっていそう。けど言葉って、大事だったりするよね。


■ 達観も楽観もせずフルーチェのためのミルクをきちんと量る
    (宮田ふゆこ)
「達観」という言葉の硬さと「フルーチェ」とのバランスが絶妙です。このマッチングだけでも充分にステキ短歌だけど、歌の内容も同様で。ミルクが多すぎても少なすぎても、理想バランスなフルーチェにはならないんだ。そんなふうに。慣れちゃいけないことがある、何度も何度でも、解ったようにはおもわずに向き合う。好きのすべてが、やり直しの利くものだったらいいけど、対峙するものによっては次はないかもしれないでしょう? 例えば、ひと、とかさ。


■ せんせいの熱伝達の解説が愛のことばと響いて五月
   (千坂麻緒)
非科学的な愛とは相容れないはずの化学、その数字や記号の羅列や組み合わせにも彼らは温度ある感情を見いだし、あますことなく愛するのでしょう、たとえば「博士の愛した数式」の博士のように。教えを通じ、まさに熱伝達のしくみように生徒である話者に伝わっていくさまが、五月という若葉の季節と相まって清々しく描かれています。